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音生命 (おといのち) ♪Let's make Rebirther
<2001/05/03> ←前へ 次へ→
1.オーディオとは 3)『音とは振動であり、振動とは生命である』
ここで、「音」そのものに魅力を感じる、更には感動するとはどういうことかを、映像を例にして考えてみよう。1980年頃迄は、カラーテレビの標準的な画面サイズは14〜16型だったと思う。それが大画面・高画質のモニター型テレビの登場によって、テレビの標準サイズは21型となり、家電各社が覇を競う90年代には29型と拡大の一途を辿った。一体、14型と29型とでは何が違うのだろう?

たとえば、テレビ画面にレオナルド・ダ・ヴィンチの名画「モナリザ」の映像が映っているとしよう。14型でも29型でも「モナリザ」が映っていることに変わりはない。しかし、29型の方がより細かい部分まで見ることができ、何よりも画面の大きさからくる迫力や真実味がけた違いであることは、容易に理解できると思う。つまり、「情報量」が違うのである。そして、同じ29型のテレビであっても、より多くの色をより忠実に再現できるテレビほど、更に情報量が増えていくことは、自明の理だ。

情報量が増えるということは、言い換えれば、その元の姿により近づくということである。映像の情報の種類には、再現されたサイズ(大きさ)や、色の数、色の純度、滲みの少なさなど多くの項目があるが、それらの情報の総量が、「モナリザ」の原画に近づくほど、原画を生で見た時に近い感動を得やすくなる。

近年のオーディオ業界における、ヘッドホンを用いたポータブル機器やミニコン・シスコンの普及は、テレビで言えば14型をも下回る7型や5型、下手をすると2〜3型の画面の製品を「音楽を聞くにはこれで十分ですよ」と言って、販売してきた結果であるように思う。
これら情報量の少ない製品は、ソフト(=ソース)のアラを目立たせず、しかも安価に大量に製造できるという、メーカー側のメリットがあるからだ。テレビ画像でも、画面が小さい時には気にならなかったゴースト(二重像や乱像)が、画面が大きくなると我慢できなくなるように、オーディオでも再生装置の能力が向上すると、ソフトのアラが見えてくるようになる。しかし、現在大量に売れているジャンルの音楽ソフトでは、わざわざラジカセに合わせた音作りをしていることも多く、ソフト・ハードとも悪循環に陥っていると思う。


かくして、街中にはヘッドホンから漏れてくるシャカシャカ・ノイズ、携帯電話の遠慮会釈のない呼び出し音、ホールやホームでの無用なアナウンスなど、雑音の洪水が氾濫し、自称オーディオマニアの出す音が一般人を感動させることも、ほとんど無い。

生の音には「感動」があるのに、なぜ一般的な再生音には無いのか。「感動」とは、感情が振動することだ。そして、音もまた振動であり、そして、振動とは生きている証、つまりは「生命」の証である。あなたが再生音に感動した時、その音は「聞き流せる」音ではなく、「惹きいれられる」音であったはずで、そしてそれは、あなたの 「感情」 がその再生された 「音」 にシンクロ、共鳴、共振したということであり、要は、『生命』 の 『再現』 に 『感動』 したということなのだ。生の音の情報量にどこまでも近づいた再生音であれば、必ずそれは可能であるし、また、それができてこそ、オーディオ装置は真に 『再生』 装置と呼ばれるにふさわしいと思う。

 『音とは振動であり、振動とは生命である』

これが、20年以上オーディオと付き合ってきて得た結論である。「生々しい」 を超えて 「生」 そのものと化した再生音は、即ち体験である。バーチャルとリアルを 「絶対安全圏内にいる状態」 と 「自らの身体に危害が及ぶ状態」 と定義した場合、真のハイファイは、バーチャルでありながら、リアルでもある。

スピーカー2本だけで、三次元的に奥行きや高さが再現され、何よりも空気感が一変する。現実世界には音源を持たない電子音が、空中に実体化して縦横無尽に飛び回る。その様子は、電子の妖精がこの世に一瞬の生を得られたことに、歓喜のあまり乱舞しているとしか思えないほどだ。こんな世界がコンセントからの電気エネルギーを源として、創造される――人為であるはずなのに、まったくの自然的な現象として、畏敬の念さえ覚えてしまう。そして、敬愛と感謝の念で再生装置に 「ありがとう」 と手を合わせるのだ。

人間が趣味として手間隙を費やすに値する再生装置は、単なる機械ではない。それは、個性や魂を有する電磁界の生命体なのだ。その能力を100%発揮させて活き活きと輝かせることが、趣味としてのオーディオの真髄であるように思う。
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